記事の要点

  • 入館無料。9:30〜17:00(入館は16:30まで)、休館は毎週月曜(祝日を除く)・祝日の翌日・年末年始
  • 1階は羽咋の暮らし(干拓前の邑知潟・漁具・能登上布・婚礼道具)、2階は歴史展示と能登のトキの記録
  • 展示室は撮影可(フラッシュ・ストロボは不可)。この記事の写真はその条件で撮影したもの

羽咋市歴史民俗資料館の展示を写真で紹介します。2階では企画展「渚の正倉院 氣多大神宮展」を見学しました(2026年8月時点)。企画展の内容は会期によって入れ替わるため、訪問前に羽咋市の公式情報で確認してください。

羽咋市歴史民俗資料館は、能登の入口・羽咋市鶴多町にある市立の資料館です。入館無料で、1階は邑知潟の漁や能登上布といった暮らしの道具、2階は古代から近代までの歴史展示と、本州最後のトキを見守った人の記録が並びます。展示室は撮影可で、じっくり時間をかけて見る価値のある場所です。

羽咋市歴史民俗資料館は入館無料

資料館は羽咋市の中心部、鶴多町にあります。建物の入口には羽咋市教育委員会文化財課が併設されており、規模としては大きくありませんが、1階と2階で性格がはっきり分かれているのが特徴です。1階は民俗、2階は歴史とトキ。半日かけて能登の入口の成り立ちを追える構成になっています。

羽咋市歴史民俗資料館の入口とミニ企画展のポスター
資料館の入口。企画展のポスターが掲示されている(編集部撮影)

訪問時の入口には、ミニ企画展「トキが舞う 能登へ」(2025年7月19日〜9月15日/2階ロビー/入場無料)のポスターが残っていました。会期中には剥製標本「鹿島路の朱鷺」の特別展示や、石川県トキスーパーバイザーの村本義雄さんによる特別講演も行われています。企画展は入れ替わるので、訪ねる時期によって2階の顔ぶれは変わります。

1階:邑知潟と海に生きた羽咋の暮らし

1階でまず足が止まるのが、干拓される前の邑知潟を写した1947(昭和22)年の航空写真です。いまの邑知潟は細長い水面ですが、この写真では羽咋の平野の中央に広い水域が横たわっています。展示解説によれば、邑知潟は江戸時代には現在の約4倍、700万平方メートルを有していたとされ、海水と淡水が混ざる汽水域で漁獲物も豊富でした。

「はくいのりょう」羽咋の漁を解説するパネル
解説パネル「はくいのりょう」。唐網・海老網・はえなわといった漁法と、丸木舟が使われたことが書かれている

展示によると、邑知潟に流れ込む長曽川では「うえ(うい)」という漁具でアマサギ(ワカサギ)などが獲られ、沿岸では地引網、岩礁の多い滝地区では釣漁(はえなわ)が行われました。潟と海の両方で漁をしていたのが羽咋の特徴です。いまの邑知潟はコハクチョウの越冬地として知られますが、かつては漁の場でもありました。

1階:能登上布と婚礼の道具

1階のもうひとつの柱が能登上布(県指定無形文化財/1960〈昭和35〉年8月27日指定)です。解説によれば、文化11(1814)年に鹿島郡徳丸村(現・中能登町)で近江から製織技術が導入され、麻糸を使った布の生産が始まりました(徳丸縮)。のちに藩の保護を得て発展し、能登上布・能登縮と称されるようになります。

羽咋市域では貸機(かしはた)という形態で、農閑期の副業として女性たちが織っていました。経糸・緯糸とも麻の絣糸を用い、紺絣・白絣・色絣などがあり、幅約37cmの小幅物の中に十文字絣を100〜120個織り出す技法は他の織物業界では至難とされる、と書かれています。

能登上布は中能登町が現在の主産地ですが、羽咋でも織られていたことがこの展示で分かります。隣には婚礼の道具が並び、黒留袖・鏡台・御歯黒箱・外居(行器)・九ツ組大盃などが揃っています。

2階:企画展「渚の正倉院 氣多大神宮展」

2階へ上がると、企画展「渚の正倉院 氣多大神宮展」が開かれていました。羽咋の気多大社と、その隣接地にある国史跡寺家(じけ)遺跡を主題にした展示です。

なぜ気多大社は「大神宮」と呼ばれたのか

展示の軸になっているのが、この問いです。解説によれば、古代の能登国は養老2(718)年に立国され、羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡で構成されました。羽咋郡は能登の入り口にあたり、広大な邑知潟を擁することから弥生時代以来の海の交流拠点として発展し、海上交通がもたらす新しい文化や技術をいち早く受け入れる能登のゲートウェイだった、とあります。

能登は、東北・北方地域や、日本海を隔てた渤海国ともむすぶ地政学的な要衝であり、異世界と接触する境界となる地域でした。だから国家はこの地の神を奉祭し、鎮める必要があった——というのが展示の説明です。『続日本後紀』承和元(834)年の記事では気多神社の祢宜・祝に把笏が許されており、「笏」を持つことは神職が官人になったことを意味し、国家の祭祀を担う「官社」として重視されたと解説されています。地方神社としては異例の「大神宮」と記す資料としても重要だ、と。

渤海使が発った港・福良津と、寺家遺跡の宝物

この展示でいちばん意外なのが、羽咋が古代の国際港だったという話です。

解説によれば、渤海は8〜10世紀に中国北東部からロシア沿海地域にかけて栄えた古代国家で、遣唐使で知られる唐よりも多く日本と交流しました。渤海使は神亀4(727)年の出羽国への来着が最初で、以来約200年のあいだに計34回を数えます。そして古代羽咋郡の福良津は、渤海使節らを帰国させる出発港でした。

宝亀3(772)年には渤海使・壱万福ら一行の船が難破して能登に漂着・滞在し、元慶7(883)年には帰国のための造船用として福良津周辺の大木の伐採を禁じた記録が残ります。延暦23(804)年には渤海使を迎える「能登客院」の整備が命じられました。その所在地には諸説あるものの、寺家遺跡の発見以来、気多神宮が渤海使の渡海安全や疫神防除の祭祀も担ったと考えられるようになり、羽咋の気多神宮で渤海使を滞在させたとする見解もあると書かれています。

寺家遺跡が「渚の正倉院」と呼ばれる理由は、出土品の質にあります。展示では、沖ノ島祭祀遺跡(宗像大社)出土の国宝である三彩小壺やメノウ勾玉と、寺家遺跡の出土品が並べられていました。解説によれば、赤色のメノウ製勾玉は形状・色調とも出雲大社境内遺跡で出土したものと酷似し、気多大社の主祭神は出雲大社と同じオオナムチで出雲から来臨したと伝えられることから、こうした資料にも古代の日本海交流の痕跡を見ることができるとされています。

気多大社には古代から神宮寺がありました。中近世には神職らの「社家」と社僧らの「寺家」が組織され、両者が一体となって神事と仏事を行っていた、と展示は説明します。気多の神は本地垂迹説により「勝軍地蔵」とされ、日本独特の「気多不思議智満大菩薩」とも称されました。

年表を追うと、この土地の歩みが1枚で見えます。748年に柳田シャコデ遺跡で掘立柱建物の集落が営まれ、804年にシャコデ廃寺が建立。1072年には能登守・藤原通宗が気多大社の社頭で「歌合せ」を催しています。中世には妙成寺永光寺が現れ、江戸期には邑知潟の新田開発と製塩の記録が続きます。柴垣古墳古墳群の名も並びます。

気多の年中祭祀 — 平国祭・蛇の目神事・鵜祭

展示のもうひとつの見どころが、気多大社の祭りです。解説によれば、元旦祭にはじまり、春の平国祭、例大祭と蛇の目神事、夏の大祓式、秋の新嘗祭、冬の鵜祭、大晦日の奥宮例祭まで、これだけの数と内容の祭祀を行う神社は能登では他に例がないとされています。

平国祭(おいでまつり)は、祭神が口能登地域を巡行する大規模な行幸祭です。3月18日から23日の6日間、神馬を先頭に神輿・従者・乗馬の神職ら50余名の行列が気多大社を出発し、羽咋市・志賀町・中能登町・七尾市の2市2町、約300キロの行程を渡御して七尾市の気多本宮を祭祀し往復します。地元では「寒さも気多の"おいで"まで」と言われ、春告げの祭りとして農期の訪れを知らせてきました。

鵜祭は国指定重要無形民俗文化財です。12月10日ごろ、七尾市鵜浦町の断崖で捕えた海鵜を「鵜捕部」の3人が「鵜籠」に担ぎ、3日かけて徒歩で気多大社へ奉納します。沿道では鵜を神の使いとして迎え、「鵜宿」と呼ばれる宿泊所に立ち寄る——これを「鵜様道中」といい、師走の風物詩になっています。12月16日未明、暗闇の拝殿で神職と鵜捕部の問答があり、鵜を放って灯火に向かう鵜の動作で吉凶を占う。神事のあと、鵜は一ノ宮海岸で解き放たれます。

面白いのは、加賀藩がこれらの祭りに関与していた記録が残っていることです。前田利家は気多社の大宮司にあてた書状で、鵜祭で鵜が神前に上がることは「国家の吉事」だから、しっかり執り行うようにと命じています。平国祭についても「例年どおりによく勤めるよう」と伝えた朱印状が展示されていました。

能登の守護神・須須神社の文化財

企画展は気多大社だけでなく、能登半島の最先端・珠洲市の須須神社にも及びます。解説によれば、珠洲は『出雲国風土記』の国引き神話にも登場し、能登と出雲の日本海交流を伝える場所です。延喜式内社の須須神社は『日本三代実録』貞観15(873)年に従五位上の神階を授かり、古代から日本海沿岸地域を守護する大神として信仰を集めました。

須須神社の文化財の解説パネル
解説パネル。地図には気多大神宮・須須神社・氣比神宮・鹿島神宮・香取神宮が「日本四社」として示される

展示には令和6年能登半島地震で倒壊した鳥居の写真(2024年9月撮影)も含まれていました。文化財の紹介と並んで被災の記録が置かれているのは、この地域の展示ならではです。

2階ロビー:能登のトキと村本義雄さんの記録

2階ロビーには、能登のトキに関する展示コーナーがあります。羽咋は本州で最後までトキが生き残った土地で、その保護に生涯を捧げたのが羽咋市上中山町生まれの村本義雄さんです。

この展示の中身と、2026年5月31日に羽咋市で行われた本州初のトキ放鳥については、羽咋市とトキ|本州最後の生息地から、本州初の放鳥へで詳しく書いています。資料館で村本さんの記録を見てから、放鳥の舞台になった田園地帯を走る——そういう順番で羽咋を回ると、この土地の見え方が変わります。

羽咋市歴史民俗資料館の利用案内

所在地〒925-0027 石川県羽咋市鶴多町
電話0767-22-5998
開館時間9:30〜17:00(入館は16:30まで)
休館日毎週月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日(土・日を除く)、12月28日〜1月4日
入館料無料
撮影可(フラッシュ・ストロボは不可)

上記は館内掲示にもとづく情報です(2026年8月時点)。企画展の内容や開館情報は変わることがあるため、訪問前に羽咋市の公式サイトで確認してください。

資料館は羽咋市の中心部にあり、気多大社千里浜なぎさドライブウェイコスモアイル羽咋と組み合わせて回れます。展示で寺家遺跡や邑知潟を知ってから現地へ向かうと、ただの水田や海岸が違って見えるはずです。羽咋全体の回り方は羽咋市の魅力完全ガイドにまとめています。

羽咋市歴史民俗資料館の入館料はいくらですか?
入館無料です。開館時間は9:30〜17:00(入館は16:30まで)、休館日は毎週月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日(土・日を除く)、12月28日〜1月4日です。館内掲示にもとづく情報のため、訪問前に羽咋市の公式サイトで最新の状況を確認してください。
展示の写真撮影はできますか?
できます。展示室には「撮影OK!!」の掲示があり、フラッシュ・ストロボを使わないこと、他の見学者の迷惑にならないようマナーを守ることが条件として示されています。この記事の写真もその条件に従って撮影したものです。
「渚の正倉院」とは何ですか?
羽咋市の気多大社に隣接する国史跡・寺家遺跡の通称です。古代の祭祀に使われた豊富な出土品が見つかったことから、こう呼ばれます。資料館の展示では、沖ノ島祭祀遺跡(宗像大社)出土の国宝である三彩小壺やメノウ勾玉と、寺家遺跡の出土品が並べて紹介されていました。赤色のメノウ製勾玉は出雲大社境内遺跡の出土品と形状・色調が酷似しており、古代の日本海交流の痕跡とされています。
見学の所要時間はどれくらいですか?
1階の民俗展示と2階の歴史展示・トキ展示をひととおり見て、解説パネルを読み込むなら1時間程度は見ておくとよいでしょう。企画展が開かれている時期は古文書や写真の点数が増えるため、さらに時間がかかります。展示替えのある企画展は、会期を確認してから訪ねるのがおすすめです。
トキの展示は常設されていますか?
2階ロビーに能登のトキと村本義雄さんの保護活動を紹介するコーナーがあります。訪問時にはミニ企画展「トキが舞う 能登へ」(2025年7月19日〜9月15日)のポスターも掲示されており、会期中には剥製標本の特別展示や村本義雄さんの特別講演も行われていました。企画展は入れ替わるため、展示内容は時期によって変わります。
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わっか北陸編集部
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